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100年のあゆみ

HOME創業100年を迎えて100年のあゆみ

「ギター印」と「?マーク」、2つのブランドが誕生

Episode1寺西化学工業所が誕生

創業者・寺西長一

明治維新から半世紀を目前にした1916(大正5)年4月、創業者・寺西長一が筆記用インキ製造会社・寺西化学工業所を創業し、記念すべき第一歩を踏み出す。創業の地は、現在も本社ビルが建つ大阪市旭区生江(現・旭区生江3-8)であった。
1898(明治31)年7月10日、大阪府東成郡城北村大字荒生の農家に生を享けた長一は、千林尋常高等小学校を卒業後、向井商店(船場)で3年間、インキ製造技術の修業を積み、18歳の若さで起業し独立を果たす。
1916年当時、ヨーロッパは第一次世界大戦で未曾有の戦火の中にあり、明治維新後に近代化で国力を増した日本も同盟国側の一員として参戦していた。また、国産初の飛行船「雄飛」号が、埼玉・所沢から大阪への試験飛行を成功させた年でもあった。

Episode2舶来に負けない国産インキとクレヨン

ギターインキ

明治から大正にかけて文明開化の名のもとに、日本には「舶来」と呼ばれる様々な西洋の生活文化が流入したが、「洋製墨汁」の名がついた筆記用インキも、その一つである。まだ墨筆が一般的だった明治期、舶来文具であるインキは「洋文を洋紙に書く」時を除き、公文書への使用が禁止されていた。転機を迎えたのは1909(明治42)年、事務公文書への使用が認められたことでインキの需要は急増し、それに伴い国産インキ製造の動きも活発化して相次いでインキメーカーが誕生する。さらに、大正期を迎えると仕事の能率向上を目的に、墨をすり筆につける時間と手間のムダを省くため、万年筆が広く普及し始めていく。そうした時代の潮流を見逃すことなく、進取の精神に富んだ創業者のもと、その担い手へと歩み出した寺西化学工業所は、インキや図画教育用のクレヨンなど、舶来品に負けない国産化を実現し、日本産業の近代化はもちろん、美術教育の促進という大切な役割も果たしていくことになった。

Episode3海外へはばたく「ギター印」

国産の筆記用インキ、クレヨン製造で後発メーカーだった寺西化学工業所は、早くから販路を海外へと伸ばし、輸出を拡大することで経営基盤を固めていった。当時、「?チョーク」と呼ばれた国産クレヨンは、舶来品に比べ着色・発色不良や?光りなどで評判が芳しくなかったが、独自に研究改良を重ねて高品質化を成し遂げることで、アメリカや中国大陸、朝鮮半島、世界へと市場を広げていった。同時に、自社商品の高品質を示すトレードマークを「ギター印」に定めることで、他社商品との違いをひと目でわかるようにし、差別化を図っていった。昭和初期の1931(昭和6)年には、海外輸出商品は「ギター印」として自社ブランドを確立し、太平洋戦争後には、取扱問屋ブランドだった国内市場も、「ギター印」で統一していった。現在、描画材に使用され社章にもなっている「ギター印」は当初、弁財天が琵琶を抱くデザインだった。その後、女王がギターを持つ姿を経て、「王冠」と「音符」の中に「GUITAR」のアルファベット6文字を組み合わせた現行デザインへと進化を遂げてきた。インキやクレヨンのメーカーである当社のトレードマークが、なぜ「ギター印」なのか。その由来は定かではないが、当時、主要輸出先であるフィリピンでギター(楽器)の人気が高かったこと、芸術の豊かな色彩と音楽の音符のイメージを重ね合わせたことなどの諸説が伝え残されている。

ギター印

Episode4すべてを失った戦災からの再起

昭和に入って順調に事業を拡大する寺西化学工業所だが、その前途には国際連盟脱退や日中戦争の勃発など、日増しに強固になる戦時体制が待っていた。長一は一時、徴兵制により軍務に就いていたが毎週末、赴任地を訪れる番頭格の社員から1週間の成果報告を受け、指示を出し、経営から離れることはなかった。物資統制が始まってからも、日独伊三国同盟にちなんだ赤・ブルーブラックの2色筆記用インキセット『ドーメイ』や、スタンプ台・スタンプインキなどの新商品を発売するなど、弛みない開発研究を続けていた。だが太平洋戦争の開戦後、戦局は徐々に悪化。1945(昭和20)年6月7日の米軍による大阪大空襲により、本社社屋や工場設備、原料資材など、経営資産のすべてが焼失し、一時休業を余儀なくされる。当時、当社の工場では染料のドラム缶を積み上げていたため、軍需工場と勘違いされたのでは、とも言われている。それでも2ヶ月後に終戦を迎えると、いち早く戦災からの再起へ始動する。配給統制下で不足する資材の入手に奔走し、半年後の1946年2月にはすでに操業を再開することができた。

Episode5パスにペイント、ギター印の描画材商品を充実

再起への道のりは、教育用画材から軌道に乗り始める。1946(昭和21)年、戦前に製造していた『ギター印金星クレヨン』を発売し、1948年にはギターパスの第一号商品『ギターファインパス』(12色・40円)を市場に送り出した。戦後の資材不足の時代、クレヨン・パス用のワックス類の入手は困難を極めたが、民主化の象徴として、未来を担う子どもたちが自由な発想で表現し、豊かな情操を養うことができる美術教育は欠かせないとの信念が、困難を乗り越える原動力となっていた。また1948年11月、事業組織を寺西化学工業株式会社(資本金・200万円)とし、初代社長に長一が就任する。法人化は、当社が第二の創業期を迎えたことを意味していた。
1951年には、ベビーブーム到来によって近い将来、学童数が急増することを見据え、大阪市内にあった絵具メーカー・丸一絵具を買収。新たにギター印の水彩絵具『ギターペイント』の製造販売を開始する。同商品のヒットで、後の高度経済成長期には教育用画材市場で、3大描画材メーカーの一角を占めるまでに成長を遂げていくことになった。
『ギターペイント』は1970~1980年代、子ども向けテレビ番組でCMを提供。「お空の色はどんな色、お山の色はどんな色、夕焼けの色は?」というCMソングは、子どもたちが口ずさむほどに、広く親しまれた。

ギター

Episode6日本初の油性マーキングペン 「マジックインキ」を開発

スピードライ社『マジックマーカー』

何にでも書けて、書いた瞬間すぐに乾き、水にも流れないインキのペンがある―。墨筆や鉛筆、万年筆など紙に書く筆記具しかない時代、長一がその存在を知ったのは、本社近くの教会でアメリカ人牧師が愛読する雑誌記事だった。1952(昭和27)年1月、運命の出合いが待っていた。アメリカ産業視察から帰国した株式会社内田洋行・内田憲民社長が開催する報告会を訪れた創業者は、視察成果の展示見本品の中で、見慣れぬ一本のペンに釘づけになった。スピードライ社の『マジックマーカー』である。すぐに内田社長に製造開発の同意を得て借り受け、研究開発に取り組んだ。見本品は、長い船旅の間にキャップや容器が壊れてしまい、フェルトのペン先も乾燥し書くことができなくなっており、仕組みの全てを解き明かすことはできなかったが、『マジックマーカー』を参考に研究を続けていった。

まず最大の問題だった有機溶剤(キシレンなど)に溶ける油溶性染料の開発に取り組み、水性染料と樹脂を反応させることで油性染料の開発に成功した。ペン先には当時、山高帽子に使用されていたフェルトを採用し、スタンプ台製造で培った技術を活かして毛細管現象でインキが中綿からペン先に染み出す構造をとった。容器も有機溶剤への耐久性や蒸発防止に優れたガラスに決定した。こうして1953年4月、日本における油性マーキングペンの国産第一号『マジックインキ』(後の『大型』)の開発に成功する。黒・赤・藍の3色シリーズで、発売価格は1本80円であった。試行錯誤の地道な研究を続けた国産インキペン開発への熱意と、見本品との運命の出合い。そのどちらが欠けても、画期的な開発を短期間で成し遂げることはできなかった。

Episode7最初は売れなかった「魔法のインキ」が、
爆発的な人気商品に

発売当初の『マジックインキ』

画期的な開発となった新商品は、インキの製造専売特許新案を寺西化学工業が取得し、「これまでにない魔法のインキ」から名付けた『マジックインキ』の名称と、ひと目でわかる「?」マークの登録商標は内田洋行が取得。ただ、この画期的な製品「魔法のインキ」も発売当初、意外にも販売に苦心を重ねることとなった。新発売時の1本80円の価格は、コーヒーが1杯50円、国家公務員の大卒初任給が7650円だった当時では「高嶺の花」の高級品であった。翌1954(昭和29)年に60円、さらに50円へと二度の価格引き下げを実施したが、百貨店でガラスに絵を描く実演販売をしても、興味本位の人だかりはできても1日に2、3本しか売れない日々が続いた。

価格改変したにも関わらず、販売数が伸び悩んだのは、当時まだ日本では「マーキングペン」が一般的ではなかったため、キャップを閉める習慣がなく、ペン先が乾きかすれて書けなくなるなど、「どう使えばいいか、わからない」ことが原因だった。そのためしばらくの間は1本毎に説明書をつけて使用方法や注意書きをしていた。だがその後、新聞社の街頭選挙速報やテレビのニュース解説用の筆記具として使われ始めると、視聴者への宣伝効果となって、広く存在が知れ渡っていくようになる。また、内田洋行の販売網に加え、寺西化学工業の描画材販売ルートでの営業を強化。これが功を奏し、学校教育の現場で、先生が模造紙に字や絵を描く便利な筆記具として認知度が高まり、それを見た子どもから各家庭にも浸透し、学童用教材としても需要が増大していった。
さらに、追い風となったのが物流業界における梱包革命の到来である。梱包資材が従来の木箱から段ボール箱へと移行し、荷造りの際に段ボール紙に宛名を書きやすく、すぐに乾燥して、水に流れず、時間が経っても消えにくいという『マジックインキ』の実用性が高く評価され、一気に日本の産業シーンに存在感を高めていった。こうして「売れない魔法のインキ」は昭和30年代から爆発的な売れ行きを示し、当時30社余りが油性マーカーの市場に参入していたが、そうした後追い商品の追随を許さず、増産につぐ増産を重ねていく。一時はマーキングペン市場のシェア60%を超え、その後も長年にわたりトップシェアを維持した。その結果、油性マーキングペンを総称して「マジック」と一般消費者に呼ばれるようになり、ボールペンやセロハンテープとともに「文房具の三種の神器」にも数えられた。現在まで、販売総数は30億本を超えるロングセラーとなっている。

Episode8ブランドの証しとなる
「グッドデザイン・ロングライフデザイン賞」を受賞

「使い終わったら、キャップを閉める」という習慣をはじめとして、筆記具の世界に「マーキングペン」の概念と新たな文化を創り出した『マジックインキ』。時代とともに進化した新商品群が、業務用から日常生活まで手軽に幅広いシーンで使われ、開発から60年以上が経過したいまも色あせることなく、日本人の暮らしに欠かせない存在となっている。そうした高い存在感とブランド認知度、広く世の中に対する貢献の大きさの証しとなったのが、2008(平成20)年の「グッドデザイン・ロングライフデザイン賞」(日本デザイン振興会主催)の受賞である。毎年選ばれる「グッドデザイン賞」は、世の中の動きやトレンド、社会的な課題解決などを映し出す「時代のマイルストーン」と呼ばれ、応募者の自薦方式で選定される。一方、「ロングライフデザイン賞」は一般ユーザー様からの推薦方式で、「長年にわたって広く人々から愛され支持されてきた商品・デザイン」に贈られる賞である。第三者の目で客観的に「これまでの暮らしを築いてきたデザインが、これから先も変わらずその役割を担い続けてほしい」という評価のもとに選ばれたことは、時代を越えてこれからも、確かな軌跡を刻んでいく期待が、寺西化学工業に寄せられていることを意味している。

発売当初の『マジックインキ』

グッドデザイン・ロングライフデザイン賞」を受賞

発売当初の『マジックインキ』

2008 年「グッドデザイン・ロングライフデザイン賞」受賞を HPで特集

発売当初の『マジックインキ』

60 周年を迎えた『マジックインキ』

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