Episode1司令塔となる新本社
描画材の『ギター』ブランドと『マジックインキ』ブランドの2本柱が、揺るぎない大きな柱へと成長し、全国へと販路を広げていく寺西化学工業は1957(昭和32)年3月に、本社ビルを新築した。竣工記念式典・パーティーは有馬温泉で開催された。またこの年、法人化してから順次、増資を続けてきた資本金を3000万円に増資する。
隣接する本社工場は19 60年に改築し、描画材の製造工場として設備を拡充。1969年にも鉄筋コンクリート造・3階建の主棟に付属建屋を含め延4950㎡の新工場に増改築し、併せて本社第二工場を改築竣工。
その後、100周年に向けた機構改革の推進により、本社工場の第一工場は2012(平成24)年、長年にわたるものづくり拠点としての役割を終える。「本社工場」の名は第二工場が受け継ぎ、研究室を旧本社工場から、物流拠点を守口工場から、それぞれ移設した。
Episode2東京・名古屋の拠点展開と、幻に終わった地域拠点・工場
全国に広げる販売ネットワークは1951(昭和26)年、いち早く東京に出張所を構えたことに始まる。戦前からの基盤である西日本エリアから、新たに東日本エリアへ進出する橋頭堡となり、1956年には東海・中部エリアを見据えて名古屋出張所も開設。本社がある大阪と合わせて、3拠点体制が確立する。
昭和30年代から『マジックインキ』の拡販が進むとともに、都市圏の大市場をにらんだ拠点体制の拡充も進んでいく。1958年には東京支社(新宿区岩戸町7)の新社屋を、1964年には名古屋営業所(名古屋市西区押切町2-12)の社屋を新たに竣工。東京支社と名古屋営業所はその後、ともに2度にわたる移転を経て、現在地に拠点を構えている。
有力代理店とともに地域密着で展開する営業活動の強化には、他にも九州(福岡)や北海道(札幌)にも新拠点を開設する構想があり、実際に社屋竣工の候補地の手配まで進んでいた。また、主成分である有機溶剤が消防法の「危険物」に分類されるため、田んぼだった周辺地の宅地化が進む守口工場を、福井県が企業誘致する工業団地に移転する計画もあった。いずれも実現には至らず、「幻の地域拠点・工場」に終わった。
Episode380ヶ国を超えた輸出先
海外輸出で事業の礎を築いた戦前と同様に、戦後も描画材、マーキングペンともに、海外市場へと販路を拡大していた。アメリカをはじめ欧州、東南アジア、中近東、アフリカ、ソビエト連邦(当時)など社会主義国まで、輸出先は世界80ヶ国を数えた。
『マジックインキ』は発売直後から輸出を開始し、北欧やオーストリア、ドイツ、パキスタンなどの現地メーカーにOEM製品を供給していく。1970年代の半ばには、環境基準に厳しい欧州向けにキシレン特有の臭いを抑えるため、脂肪族炭化水素系溶剤を主体とした耐水性の強い油性染料インキを新たに開発。品質に厳しいものづくりを評価した海外メーカーからOEMの依頼が相次いだ。最盛期には、1964(昭和39)年から7年連続で通商産業大臣から「輸出貢献企業」の認定も受けている。
1980年代には、世界有数の大市場であるアメリカで、国内製品の『オパックカラー』をベースにしたペイントマーカー『Deco Color』(Uchida of Americaが販売)が、大ヒット商品となった。日本に先がけて到来した、彩色デザインの「デコレーションカラー」ブームに乗ったものだった。
また北欧では国内製品の『No.700』をベースに開発した『PENOL No.777』(通称、スリーセブン)が、大ヒット商品となった。品質だけでなく、金型の設計開発に苦心を重ねて実現した独特のキャップデザインの格好良さが人気の秘訣だった。